希望を持って生きよう!

こんにちは。
まさみちです。>>>PROFILE

リーディング心理カウンセリングをしています。

嬉しさや、喜びなど、嬉々と笑っていられる状態を心がけていこうってことは、誰でも思うものですし、知っていることです。

楽しくないことには、笑えませんし、無理に笑っていると誤解が解けなくなります。

そう、

「相手が傷つくかな?」

「困らせたくないな」

「不愉快な思いにさせてはいけないと教わったしな」

「この場だけやり過ごしたらいいよね」

などと、4つに別れた自分同士が相談して、面白くもない話しや、自慢話など、滑っている笑いでも笑いに付き合って「楽しい」って表情を見せるから、余計に相手に気に入られ、際限なく付き合わされる事態に陥ります。

相手への優しさが、自分への不幸を招き入れているなら、とても残念な話しですよね。

相手からは、自分の話やネタがウケると感じた反応があるので、好感抱いてもらえていると錯覚してしまいます。

「喜んでくれている」

「素直な人だ」

「もっと楽しませてあげたい」

「次も誘おう」

などと感じている関係だと、この先、悪いことしか起きない気がしませんか?

客観的事実をどっから見ても、片方は、「無理して笑っている姿」に見える筈だし、もう片方は「凄く仲の良い間柄」と見えると信じている訳です。

 

これが自分同士が嫌い合った結果、それぞれが自分の世界を創り上げて、相対する世界の住人と、対話出来ても打ち解けていない事例です。

 

仮に第三者がいても、それが「無理して笑う側の感覚」か、「凄く仲の良い間柄の感覚」かによって、言い分が別れます。けれどもその両方の感覚を持ち合わせている場合、「無理して笑う姿」も見て取れつつ、「凄く仲の良い間柄」とした錯覚した感覚も見つめられる為、間に入って分けることが可能になります。

図にしてみました。

私が分離して、自分となり、その一方がこちら側になり、もう一方があちら側となって、ミスコミュニケーションとなる図です。

嫌う側嫌われる側の関係です。

嫌われる側は、面白い話しやネタをいっぱい用意して、好かれようとします。

けれども、嫌う側は、見せかけは嫌わないけど、本心は楽しくないから離れておきたい。でも、そんなことをすると嫌な人と思われたくないから、うまく表現出来なくなる。「嫌」と言えない。

こうしたミスコミュニケーションが夫婦間や、親子間で起きてしまうから大変です。気遣うほどに、問題が悪化し、心労になり、決別するしかなくなります。

痛い時は、離れて穏やかにして、それから考え直して、迎え入れるのが良いのです。

外科手術する時は、麻酔してするものです。

一時的麻痺させて、手術中は痛みがわからないように隠します。

実際は、開腹しているから、肉体に痛みが出ていない訳がありません。
麻酔が切れれば、手術した後が痛いものです。

これと同様に、心の傷も互いが嫌がるか、もしくは一方が強烈に嫌がる場合は、離れる方が賢明な処置となります。

学校に登校して、死ぬような苦痛が体感的に訪れるなら、「学校なんて行かなくていい」という話しになります。一時的に苦痛から離れ、離れた場所で勉強すれば良いものです。離れても勉強をしたがらないなら、学校ではなく勉強そのものが苦痛であることもあります。勉強させない痛みのない状態でなら、痛みの原因を探ることが出来、それを回復し、治すに至れば勉強出来るように変わりますし、学校に行くことも出来るように変わります。

 

さて、話を戻し、嫌う側、嫌われる側に分離した自分同士が、「笑い話に無理して付き合う側」「笑い話を喜んでする側」に別れてしまったまま、打ち解け合うことがない事態を、客観的に観察出来たかと思います。

 

こっち側と、あっち側、どっちもどっちという感覚でありつつも、これでは別れる道しかありません。

別れるのを辞めるには、無理する側は、相手に嫌われる覚悟で、本音を言わなければなりませんし、笑わせる側は、相手が嫌がっている姿が、照れているのではなく、本当に嫌がっていると感覚ではなく見た目だけで認識する力が必要となります。

冷静になり、問題だった出来事や、体験を振り返った時、自分の感覚に触れられるかどうかがポイントです。

無理して笑う側

こちらは、表面的なオレンジ色の「笑っている姿」だけが、自分の本心だと錯覚している限り、自分が「悲鳴が出ない」「恐怖ですくんでいる」「自分を消している」という事実を認めたがりません。

それで、『私が私をピンチにさせていた犯人だ!』と自覚して、自分がまさに今ピンチ状態にして、放置して嫌いな人と無理して関わることをしている無責任さがあったとわかると、自分に「ごめんなさい」出来て、自分と自分が統合して、「私の心」に戻れるのです。

凄く仲の良い間柄

あちらは、相手も自分も笑っていますし、内面では、一緒にいると「楽しい」し、この人はなんて「優しい」と感謝仕切りだし、凄く「いい気分」である為、自分に問題があるなんて事実を認めたがりません。

それで、眉をひそめる視覚情報が「照れ隠し」から「嫌がる証拠」に改まると、「不快さの確認」が出来、「困っている状態情報」として自分が嫌がらせしている空気の読めない困ったちゃんだと自覚出来るのです。この時「ごめんなさい」出来て、自分と自分が統合して、「私の心」に戻れるのです。

 

他人を責めていても仕方がありません。

けれども、嫌な体験を改めることは中々困難で、離れてしまえばいいという理屈を使い続けると、痛くしない関係だけで寄り集まることになります。

それはそれでとても大事なことです。

互いの痛みが分かり合える仲間たちと共に生きて行く体験となりますからね。それでも一緒にいると、不都合や不具合な関係が生じてしまい、仲違いしたくないから、踏み込んだ関係は持ちたくないとなります。

そうなってしまうと、みんなでいるより、一人でいる方が楽だということとなり、表面的な関わりだけで済ますようになります。

ミスコミュニケーションとも気づかない内に、境界線をたくさん作り上げてしまい、互いの雰囲気やニュアンスが伝わらない言葉を使うようになるのです。

「言った」のに、「言われていない」と言い合うようになる。

などということになると、話し合うことさえ出来なくなります。

 

四つに分離した心が一つに戻る過程は、自分の素直さ心に触れられるかどうかです。純粋意識などとも表現されることもありますが、あなたの真心はどこを向いていますか? みたいなものです。

美意識を間違えると、自虐行為に突き進みます。

 

 

美しい心でいたいものですにゃ〜。

 

では、また〜。