言葉がわからない……「菩薩」とは

こんにちは。
まさみちです。>>>PROFILE
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わからないことを自分で探求しだしたら、心理カウンセラーになっていました。今日は、そんな探究心の一旦をご紹介します。

言葉は、奥が深く謎めいているものです。

意味は解説されると、なるほどと思いつつも、言葉を見つめていると、人によって様々な解釈を込めて、まるで暗号のように使っていたりします。

外国語のように、その文化圏でしか通用しない「若者言葉」などにも見られるように、共通認識する間柄なら、イントネーション一つで使い分けされていたりします。

 

「やばい」「ヤバイ」「や・ば・い」「やっばー」「やばいやばい」「やばくなーい」「やばいよね」「やばやばでしょ」「やばいの?」

 

などは、友人関係をはじめ、立場や、上下関係の扱い、育てられ方、これまでの注意のされ方や、感心の向けられ方、受け答えの質や、状況や環境、無意識下における信頼の有無など、踏まえておく事前情報がなければ、「何言っているかわからない」と感じてしまうものですし、自分が目上であるなら、「その言葉遣い直しておいた方がいい」と思いついたりするものです。

こうした、同じ言葉でも、その内容中身など、踏まえる状況環境などによって、意味合いが丸で変わってくることを知っているなら、態度を硬化させて緊張感や苛立ちを覚える必要性などなくなります。

信頼関係を築き挙げられた間柄には通じる言葉でも、築いていなければ、何を話しているのかわからないし、間に入り込ませない連帯感などもあります。築き挙げられなければ疎外感や、孤独感を覚えるようになる為、コミュニケーションが取りたくて、言葉遣いを教えようとして、より嫌われたり、除け者にされることになることがあります。


共通の言語として、使えているならよいものの、使っている人さえよくわからずに使う言葉があるようでは、信頼云々以前のようにも思えます。

説明出来ない言葉を使って、コミュニケーションは果たして成立するのか? はたまた一方通行でも成立しているかのように見えているだけでも、問題ないやり取りとして見てしまうのか?

 

ふと、最近少し、使うことが多くなった「菩薩」という言葉について、考えてみたいと思います。

辞書を調べてみます。(google,Wikipedia)


仏の次の位のもの。みずから菩提(ぼだい)を求める一方、衆生(しゅじょう)を導き、仏道を成就させようとする行者(ぎょうじゃ)。

菩薩とは「菩提薩埵(ぼだいさった)」を略したものです。
菩提のと薩埵のをとって、菩薩といいます。

菩提とは仏のさとり薩埵とは求める人のことですから、仏のさとりを求める人を「菩提薩埵」=「菩薩」といいます。

菩薩(ぼさつ)とは、梵名ボーディ・サットヴァ(: बोधिसत्त्व, bodhisattva, : bodhisatta) の音写であり[1][注釈 1]仏教において一般的には菩提(bodhi, 悟り)を求める衆生(薩埵, sattva)を意味する[1]菩提薩埵とも音写される。仏教では、声聞縁覚とともに、声聞と縁覚に続く修行段階を指し示す名辞として用いられた[2][3]


仏のさとりを求める人のことで、修行段階の名辞でもあるようです。

世間ではそのように知られているので、仏陀に至る為の修行段階のことや、お坊さんみたいな人のことを示すのかな? とイメージ出来る意味合いです。

ただ、それらの解説を聞いても「うんうん」と頷けない感覚があるので、きっと、自分の知らないところで知っている感覚が、他に意味合いや答えがあることを教えてくれるのです。それを辿ってみたいと思います。

菩提薩埵(ぼだいさった)とした言葉があるので、まずはこの『薩埵(さった)』を学びたいと思います。
次に、『菩提』『菩提薩埵』『菩薩』を学びます。


Q,薩埵とは、何のことですか?

A,言葉に含まれるニュアンスから、辿れる他の思いのことです。
五蘊(ごうん)とした、「受・想・行・識・色」とがあり、心と体の働きを表わす基本的な構造のことを、紐解き、表現出来る能力のことを示します。
「自由な時間が欲しい」と、「想」で思うなら、そこから辿り、他の思いを拾い出すことが可能なことを言います。ここで例えるなら「受・もっと働いて休みを作れる身分になれ」「行・やりたくもない仕事をいつまでつづけるの?」「識・いつか誰かが助けに来てくれるまでここで頑張ろう」とした思いを見つけ出すことが出来、「色・疲れ果てている」とした4つの精神作用に対して、1つの肉体作用が色となって表れていることを見つけ出せる力のことです。


Q,菩提とは、どういう意味合いがあるのですか?

A,今ある現実とした証拠のある事象も、違う事実が隠れているものだと知り、見抜き、嘘を付かせない力のことを指します。
現実に表れる相手の表情、態度、声色、言葉、感情的な雰囲気や、自身の心情や、思考、前提や認識、解釈や価値感、建前と本音や、周りが見る証拠により推察、想定する動機、総合的な結論の出し方、パターン反応、裁くか許すか、敵対するか、味方に回るか、中立になるのか、無視するのかなどがあるものの、それは形のない幻のようなもので、想定する根拠が変わるなら、現実も変わってしまうようなあやふやなものだと知って関わることを意味しています。


Q,菩提薩埵とは、証拠があっても、問題を解決する為なら、関わる者たちの認識の歪みを辿り、解き明かし、和睦に変えて、笑い合えるようにする働きのことを指すのですか?

A,概ねその解釈で正しいです。菩提薩埵と、続けて書くときは、師が弟子に対して、「菩提薩埵(ぼだいさった)しましたか?」と、弟子同士が議論となり、白熱しているのを見咎めて、「こらこら、忘れていることはないですか?」といったニュアンスで微笑みかけ、「ボディー・サットヴァ」と梵名で言うことが、日本語のニュアンスであるなら「そこの菩薩さん」と呼びかけるだけで、議論に陥っているところから、正して、問題の本質を紐解くことをするよう促す呼びかけのようなものです。


Q,菩薩とは、笑い合える関わりを示すことでよいですか?

A,その通りです。しかし、「色・菩薩」とは、「受・自身の価値感を信じ、関わる相手を説得してわからせようとするもの」であり、「想・もの思いに耽り、自己判断で物事を推し進めようとするもの」でもあり、「行・客観的状況証拠からならば、然るべき事実に従って解釈を改めるべきもの」と、判断して、議論に明け暮れてしまうため、「識・学びをする者であるなら、友からの進言には素直に従うもの」だとした主張を繰り返してしまう為、四人の僧が集まっても、解決に向かわない時があるのです。それは、しばしば起きるもので、誰かが「菩提薩埵せよ」と、促し「菩薩はおられぬのか?」と、冷やかすことで、四人の「信者(受)・僧者(想)・行者(行)・尊者(識)」たちが、学びを進める議論を続けていけるようにする言葉なので、皆がみな「学ばない議論に明け暮れる(色)」に陥る為、元に戻してやる必要があるのです。四人と称してもよいが、この四人の働きは、一人の心の働きでもある為、自分が自分を見つめる時に「菩薩たれ」と自認し、思考や感情に埋没しないよう、意識づけるものです。「笑えていない自身の姿に気づきなさい」と菩薩行と、学びの段階に踏み出せていることを喜びとして、人生を楽しんで過ごせるように努めることを意味するものです。


 

言葉に込められた思いを拾い出してみると、ニュアンスが感じ取れるので「仏のさとりを求める人」のことでも、「修行段階の名辞」でもあるのは間違った表現ではないものの、今ならこの表現で「うんうん」と頷けるようになりました。

五蘊(ごうん)や、「受・想・行・識・色」といった言葉のニュアンスが「ああ、あれのことね」と体感で腑に落ちてわかっていないと、「菩薩」の言葉の意味もわからないものでもあります。「薩埵」などは、意識の働かせ方や、技術とした能力のことを示しているので、使えている人はわかりますが、使えていない人は、どれだけ言葉で説明を受けても「???」が抜けないものだともわかりました。

 

仏教用語は、こうした体感覚で腑に落ちている言葉と、そうでない知識だけの言葉では、解釈や納得の仕方に雲泥の差が出るものだとわかります。

知識で身につけようとするよりも、「薩埵」とした力の使い方を把握してみる方が、余程面白く、何より苦がなくなり、楽になる体験は心地よいもので、楽しくてたまらなくなります。

 

「薩埵」とは、リーディング能力とも表現してよいものです。

「菩提薩埵」とは、「問題解決する為に、リーディングして読み解きなさい」と表現しているものです。

「菩薩」とは、「読み解く者(リーディング)」と、現代風に言うなら、このような感じになるものです。

「瞑想」が、「マインドフルネス」と言い直すことで、取り掛かりやすく改めたように、「菩薩行」などと称すると抵抗があり、宗教色がぷんぷんしてしまい抵抗してしまう人には、「リーディング」とすることで、感心を取り戻し、楽しむ為に読み解くことが出来るようになると、大変人生が豊に変わります。

 

学びやすい時代に入りました。

 

楽しいですよ。

 

言葉について、探求してみました。

では、また〜。