駄目な世界

悲しい時代を生きているとは感じたことはないだろうか?

平和に暮らしたいと願いながら、負の感情をあおり立てる記事の方が人気があり、みんなが持つ共通の正義感に火をつける。

この記事は、『笑顔溢れる世界』を望む人を対象に書いています。

この記事の中には、負の感情を消し去る操作があります。
不快感に触れたくない方の誤読を避ける為の注意喚起ですので、これ以上は読み進めないようお願いします。

平和を望みながら、未だに「怒りを持つ人を嫌う」人が絶えない。
シンプルに考えれば、否定する意識を放つことで、相手の無意識に嫌悪感を抱かせるイメージを届けていることになる為、「怒りを持つ人」が気を休めて、その人自身が価値観を改める休息を与えられることはない。

否定することで、相手が改善する切っ掛けが得られると真剣に感じている人も多い。自分が否定されて、素直に怒りを静められるかと考えてみればいい。「怒りを静めることが出来る心」で考えたところで、「許しの価値観への転換」は生まれない。

「怒りを静めることが出来ない心」で考えてみないことには、相手と同等の立場になって、相手を理解したい意識で考えるプロセスにはならない。

「怒り」は、価値観の衝突とも言える。

「怒りをあらわにすること」で、自身が不当な立場に立たされていて、その状態が緊急性を要している為、稚拙な関わり方しか出来ない程に追い詰められていることを想像する思いやりを向ければならないのは、冷静になれる周りに居る人たちの方である。

にも関わらず、「怒り出す人」に対して、「怒るなよ」「落ち着け」「静まれ」「恐い」と反応してなだめようとするものだ。

これがどれほど滑稽(こっけい)で、稚拙な応対であるか考える余地がないのである。

「怒り」は、そもそも逃げ場のない意識の封じ込めによってもたらされる感情的な反射反応である。

二人で居る時や、多人数で居る時であっても、その環境や状況がもたらす場が、そもそも封じ込めであるのだ。

刺激しないようにしようとすることや、「怒り」の危険性を感じている人は、冷静な応対に努めるだろう。

しかし、そうした冷静な対応ですら、怒りをなだめることが困難なことがある為、問題の原因者は「怒っている人」となり、対策を講じるのは封じ込められた意識の状態である「怒っている人」が担わなければならないのだ。

否定される意識の中で、価値観の転換となる冷静な考えを「怒っている人」が持てるかどうか自分に置き換えて考えてみることだ。

「怒り」は、「平和を望む人」でなければ抱かない負の感情であると、冷静になって考えてみて欲しい。

稚拙さな感情表現で、状況を打破しようとする行為は褒められるものでは無い。とはいえ、成人を迎えた人が感情的にならなければならない事実は、何かしらそこに至るまでの過程に「落ち度」がなければ成立しないものでもあると、連想してみて欲しい。

特定の人の前だから、「怒る」場合もあるし、みんなの前だから「怒る」こともある。一人にならなければ「怒る」ことはないこともある。事情は様々あるにしても、何か大切なものを踏みにじられたと感じた反応だと想定して考えて欲しいのだ。

大多数や、その人以外は「怒るほどのことではない」ものかも知れないが、その人にとっては「怒るしか表現方法を知らない」のかも知れないのだ。

平和を望む多くの人が、価値観が孤立化して、誰にも理解されない人の心理を想像する力が欠落していると言わざる得ないのだ。

駄目を向けていることに気づいていない。

駄目とは、「してはいけないこと」「繰り返してはならないこと」「過ちである行為」「対象を壊したり、傷つけたりしない為に注意を示す言葉」である。

本質を解説するならば、駄目とは「眼差しの力により、平和な人を感情的に取り乱した人に化かしてしまい、悪人に仕立て上げる邪眼と揶揄(やゆ)される知性のない人の想いのこと」である。

つまりは、多人数が「駄目」という眼差しを平和な人に向けると、平和な人は「怒り出してしまい」、周りから「怒る人嫌い」「怒るって最低」「怒るって知性がない」「怒るって野蛮」などと罵られてしまい、犯人は「怒っている人」であり、駄目な眼差しを向けた多人数にはならないのだ。

現代は、とかく証拠に基づかなければならない。言いがかりで犯人を仕立て上げてしまわぬよう、物的証拠が重要である。

「怒っている人」という録画でもあれば、その人が原因者であり、周りが冷静な対応を繰り返しているなら、誰が見ても犯人は「怒っている人」になる。当たり前のことだ。

それでも、駄目という眼差しの力を集めれば、平和な人が怒り出す状況を作り出すことも、多人数が集まれば可能である意識の働きや反応が生まれることを知っていて欲しい。

怒りっぽい人が、実は自分の意識で怒っているのばなく、周りの見えない眼差し(駄目)による意識によってもたらされている場合もあるのだ。

もちろん、これは一事例でしかない。

駄目な世界と、諦めているその眼差しこそ「駄目」が宿っていることに気づいて欲しいことを知らせている。

悲しみを見つける眼差しがあるなら、同時にその悲しみを取り除く慈しみを与えてやれば平和は叶う。

恐れを見つける眼差しがあるなら、同時にその恐れを取り除く恩恵を与えてやれば震えは止まり勇気が宿る。

怒りを見てしまう駄目な眼差しがあるなら、同時に自身の中にある哀しみもあると気づけ。そして怒る相手を心の中で抱きしめてやればいい。相手の哀しみと、自身の哀しみが結ばれれば欲しかった労りが手に入り、穏やかになる。

偽りの笑いを見透かしてしまう眼差しがあるなら、その人の代わりに恐怖に押し潰される受け皿になり「辛かったね」と声をかけてあげれば良い。そして「遅くなってごめんね」と嘘笑いに気づかない愚かしさを詫びることだ。

虚ろな姿を見つけてしまう眼差しがあるなら、声をかけ、手を取り、「嘘をついてやり直そう」と持ちかけたら良い。元より本質的なことなど教わってきていない世界など壊してしまえばいいと笑いかけ、今こそ「嘘から出た真(まこと)」として、新たに生まれ変わった人生をはじめたらいい。きっと「馬鹿だ」と笑われるだろうが、笑ってもくれるだろう。

生きた眼差しを持つ人が少ない時代だ。

駄目な眼差しなど、多人数で純粋な人を怒りで狂わすだけだと当事者は気づかない時代だ。

それでいて平和を望むのだ。

慈しみのない、恩恵を与えられない、共に泣いてやれない、謝れない、真に戻してやれない眼差しを、『駄目』と呼ぶ。

平和を望みつつ壊す人の眼差しである『駄目』は、見えなくも実体のあるものを信じない性質がある。

悲しみも、恐怖も、怒りも、嘲笑も、虚無も、どれも実体があるが、愛されていると気づけば消えてなくなる蜃気楼のようなものである。

幽霊も、怪物も、妖精も、悪魔も、邪鬼も、見えないものだが実体はある。しかしこれらも又、正しく扱えば消えてなくなるような幻のようで滅されてしまうものでもある。

人の「怒る姿」を見て「幻滅した」と思いついた体験がある人は、自分の目が『駄目』に冒されてしまっていて、機能しなくなっている状態であると気づく勇気を持って欲しい。

人は自身に都合の良い情報しか信じない傾向がある。
それはとても責められるようなものではない。
生きる上での生存本能のようなものだ。
「駄目」という禁止する言葉の意味ではい、本質的な眼差しの状態を示す言葉の意味を知るか、知らないかは、教わっていなければ身につけられる類いではない。

辞書にも書いていないことをここでは書いている。

独断と偏見だと言われるものでもあるだろう。
それでも、信じた者の目は、既に「駄目」は宿っていない。
生きた眼差しを持つだろう。

真実を見通す眼差しを宿すには、純粋な目が必要だ。

心眼などと呼ばれる見えないものを見る力のことだ。

「喜怒哀楽」が人の正常な感情表現だと思わないでいて欲しい。

「人を貶して喜ぶこと」
「思いを踏みにじられて怒ること」
「大切なものを失って哀しむこと」
「みんなを働かせて自分だけ楽をすること」

これらを四字熟語で表していると定義し直していただければ幸いである。

純粋に喜ぶことや、不正を怒ることや、思いが伝わらず哀しむことや、大勢を楽しませることとしての「喜怒哀楽」もあるが、この場では使わないでおく。「駄目」な眼差しは、良識としてこちらの解釈を意識したがる為、自分の負の感情を識別しようとしないからだ。

駄目な世界を変えるのは、あなたの純粋な眼差しを回復させるところからはじまる。

世界をどう見ていますか?
あなたの目には、この世界はどのように映し出されていますか?

悲しい時代を終わらせましょう。

言葉の成り立ちの本質に触れれば、見えない世界も見えるようになる。

リーディング・マスターまさみちが案内します。

摩訶不思議な世界がここからはじまります。

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